ムソルグスキーはトランペットの響き

展覧会の絵」の管弦楽版といえばラヴェルの編曲したものが一番有名です。しかし、最初のプロムナードの冒頭がトランペットなのが派手すぎるとか、ロシア的な感じがしない、などとお気に召さない方がいるようです。それでストコフスキーなどは弦楽器で始めてみたりしています。

では何故ラヴェルはトランペットでプロムナードを始めたのか、僕が思っていることを書いてみます。

最初に思ったのは音色の整合性ということです。

ウィキペディアによるとラヴェルはまず「キエフの大門」から編曲を始めた、とあります。

キエフの大門」は、堂々としたAと物悲しいBが交互に出てきます。2回目のBの後に最後のAを導く部分(Cとします)が挟み込まれています。並べてみるとA-B-A-B-C-Aということになります。

このCの部分の途中にプロムナードの旋律が再現されるのですが、ラヴェルはこの旋律をトランペットに吹かせているのです。

正確に言えばトランペットのソロではなく3本のトランペットの和音であり、他に木管楽器やハープなども参加していますが、聴けば分かるように、トランペットが明らかにプロムナードの旋律の中心です。

ここでラヴェルは考えたのではないでしょうか。この最後のプロムナードの旋律をトランペットに吹かせたのなら、曲の最初のプロムナードもトランペットにやらせるべきだと。

つまり、プロムナードの旋律はトランペットの音色と結びつけられていることになります。

ご存知の通り、「展覧会の絵」はムソルグスキーが友人の画家ハルトマンの遺作展を見て、その印象を音楽にまとめた組曲です。この曲の趣向は、それぞれの絵を表す曲と曲の間にプロムナードという音楽を挟んで、絵から絵へ見て歩くような構成になっていることです。

ということはプロムナードは絵を見ている主体、すなわちムソルグスキー自身を表していることになるわけです。

先ほど、プロムナードの旋律はトランペットの音色に結び付けられていると書きましたが、そうすると、トランペットの音色はムソルグスキー自身を象徴する楽器として扱われていることになります。

似たような例としては、プロコフィエフの「ピーターと狼」を思い出していただければいいでしょうか。「ピーターと狼」ではピーターが弦楽器、鳥がフルート、猫がクラリネットというように登場人物が楽器によって結び付けられています。

こうした楽器の音色が音楽の構成要素を示すことを、あえて名前をつけるとすれば「音色主題」と呼ぶことができるかもしれません。

 

トランペットがムソルグスキーを表すと考えた上で「展覧会の絵」を聴いてみると、さらに穿った見方ができます。

ムソルグスキーは社会の中で生活に苦しむ人々に心を寄せたとも言われています。ラヴェルがどこまで音楽や作曲家の背景を意識したかはわかりませんが、そうしたことも合わせて聴いてみると、「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」のシュムイレの旋律がミュート付きのトランペットであることは意味のあることのように聴こえてきます。ムソルグスキーはシュムイレのことを我がことのように感じているのです。

また「ビドロ」の旋律がチューバなのも同じです。トランペット=金管楽器金管楽器の低音=チューバということで、「ビドロ」のチューバはトランペットの代わりなのです。「ビドロ」の原画は特定されていないそうですが、虐げられた人を表している可能性があるらしい。でもこうしたことはラヴェルの時代には知る由もないことですから、ラヴェルがそこまで考えていたはずはありません。それでもトランペット=ムソルグスキーとして考えてみると、「ビドロ」の虐げられた人へのムソルグスキーの思いが、このチューバという楽器に託されていると思いたくなってきます。

さらに付け加えると、最初のプロムナードはトランペットのソロに始まり、しばらくは金管アンサンブルだけで演奏されます。これに対応するのが「カタコンブ」です。カタコンブは洞窟などでの埋葬施設のことですが、このカタコンブに対してムソルグスキーは、友人ハルトマンの死だけでなく、多くの不幸な死者たちへのレクイエムとして作曲したのではないでしょうか。続くプロムナードは「死せる言葉による死者への呼びかけ」と題されています。ラヴェルはこの「カタコンブ」を最初のプロムナードと同じ金管アンサンブル(正確にはクラリネットファゴットコントラバスが加わります)で書いています。そしてこの曲の後半、短く印象的な旋律をトランペットのソロにあてがっています。

 

こうして見てみると、ラヴェルは冒頭のトランペットの音色に、ムソルグスキーの社会における不幸な人々への思いを象徴させたのではないでしょうか。

 

最後に・・・。この「音色主題」的な構成をラヴェルと同様に行った編曲があります。それは冨田勲シンセサイザーによる「展覧会の絵」です。冨田版ではトランペットの代わりに人の声が「音色主題」になります。最初のプロムナードは人の声で始まり、「キエフの大門」の中のプロムナードの旋律も人の声です。そして「ビドロ」は冨田が言うパピプペ親父の声であり、「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」では立ち上がる民衆の声として人の声が使われています。「カタコンブ」も男声合唱のような音色で演奏されます。唯一違うのが途中のラヴェル版でのトランペットの旋律で、冨田はこの旋律はパイプオルガンの音色を使っています。

おそらく冨田はラヴェル版のトランペットの意味をわかっていたのではないかと思います。それはオーケストレーション上のことではなく、ムソルグスキーの社会の中の不幸な人々への思いとして。

冨田勲シンセサイザーを使った様々な編曲は宇宙的であったり、どこの世界とも思えぬ空想の世界的であったりすることが多いのですが、この「展覧会の絵」では全編に人の声が支配的であり、宇宙的、空想的であることより、現実の社会の出来事として、この曲を捉えているように思えます。